小学生のころから、私は、漢字に関してさまざまな疑問を感じていた。
たとえば、「熱」などの「
」を大人はつなげて書くのに、なぜテストではつなげるとバツになるのかとか、
「習」の上部と
「曜」のつくりの上部とはなぜ微妙に違うのか、などなどである。
成長するにつれ、また漢字に関心を持って勉強を進めるにつれて、これらの疑問は次々に解消していった。「やっぱりそうか」というものや、「なるほどなあ」と思うものもあったが、なかでも、目から鱗が落ちたような強い印象を今も記憶しているのが、「専」に関する事例である。
「専」にはないのに、「博」のつくりにはなぜ肩に点があるのか。これがその疑問である。点以外はまったく同じ形に見えるが、この点にどんな意味があるのか。書き取りテストで間違えるたびに、そんなことを考えたことを覚えている。
この疑問を、平成8年の漢字検定の受検勉強の際に思い出し、この際だからと調べてみることとした。その結果、よくあるケースではあるが、この事例もやはり、旧字体から新字体への移行によって生じたものであることを知った。
「専」の旧字体は
專であり、「博」の旧字体は
である。
「專」は「上部をくくったふくろ」
(ケイ)を「寸」=手で押さえる形である。
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「専」甲骨文 |
「専」小篆 |
「專」に従う字には、常用漢字の旧字体だけでも「轉」(=転)、「傳」(=伝)、「團」(=団)があり、ほかには「磚」、「
」などがある。いずれも「セン」「テン」「ダン」など、音の対応も見られるし、意味の上でも、袋を手に持って人に渡し(傳)、手でたたいて丸くし(團)、丸いものは転がり(轉)、またさらには土を手で固めてかわら(
)を作るなど、関連が見られる。
また、「恵」の旧字体は「惠」で、
が音を表し、口を縛った袋のように、心を引き締め、慎み戒めることが原意だとされる。
一方、「甫」は苗木の根を縄で縛って固めた形といわれる。
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「甫」甲骨文 |
「甫」小篆 |
「甫」に従う漢字には、捕・浦・舗など馴染み深い字のほか、「甫」+「寸」では「博」「簿」「薄」、「甫」+「方」では「敷」などの字がある。これらについては、新字体では、「甫」の縦の三本の線が短縮されたことにより、まったく違った印象を与える形となっている。
こちらについても、音は「ハク」「フ」「ホ」「ボ」など関連が見られる。また苗木のかたちなので、幼いものを助けはぐくむ意味から「補」「哺」「輔」「傅」などの字が、縛る意味から「捕」「縛」「搏」などの字が、また広く一面に苗木を植える意味から「博」「敷」などの字が生まれたとされる。「圃」は苗木を育てる畑である。
このように、「専」と「博」のつくりは、形は似ているがまったく違う生い立ちであり、したがって意味の上でも関連がないことがわかった。
しかし、私としては、これで謎がとけた、と喜んでばかりもいられないと感じた。より大きな問題の存在に気づいたからである。なぜこのような紛らわしい事態となったのか、またなぜこうしたことを学校で教えてくれなかったのか。
各所で指摘されていることだが、新字体制定時の、恣意的・無原則的な省略や変形のやり方が、この例だけでなく、いくつもの問題を生んでいる。
「專」は「専」と略されたのに、「轉」・「傳」は「転」・「伝」となり、「團」は「団」となった。このことにより、これらの字が同じ声符にしたがっていることや同じ意味系列に属することがまったくわからなくなってしまっている。また、「甫」を構成要素とする字において、縦線を短縮することに何の意味があるというのだろうか。専の上部と似た形だからそれに合わせるというのであれば、肩の点も削除するべきであろう。全く首尾一貫を欠いている。
さらに、冒頭に述べた
「習」と「曜」の構成要素について言えば、元は同じ「羽」である。同じ「部品」なのに、現在では、使われる漢字により形が変わってしまっている。また、常用漢字表外の
「翰」「煽」「寥」などの印刷標準字体は康煕字典体に準じており、
「溺」は平成22年に常用漢字となったあとも旧字体と同形である。混乱の極みと言ってもいいだろう。
一方、学校では、「専」には点がなく「博」には点をつけなければいけないこと、
「習」と「曜」にはよく似た部分があるが少し違うことを教えてはくれるが、なぜそうなのかは、普通の先生は教えてくれない。つまり、文字の生い立ちを教えずに、結果として今常用漢字となっている字形だけを丸暗記させるやり方である。
これでは、教えられる側が漢字嫌いになるのも当然である。似たような字なのに少しだけ形が違い、わけもわからず覚え込まされるのだから。
この二つの問題をあわせて考えると、新字体への移行により判別できなくなった漢字相互間の関連を、旧字体の知識も含めて、学校教育の場できちんと説明する必要があると思う。さらに、新字体の持つ問題点も、過去の負の遺産として率直に認めるべきだろう。
こうしたことを教えることは、一見、生徒の負担を重くし、時間もかかることとなると思われそうだが、漢字を無意味な図形として丸暗記するよりもかえって記憶の効率は上がり、なによりも生徒が漢字に関心を持ち、理解を深めるきっかけになるだろう。
すべての漢字についてその生い立ちを詳しく教えるのは困難かもしれないが、先の事例でいえば、せめて本稿に述べた程度のことを説明すれば、生徒も納得できるだろうし、一度覚えれば二度と間違えることもなくなると思うのだが。
*小中学生向けバージョンも作成しました。
こちらをご覧ください。
注1)(財)日本漢字能力検定協会発行「日本語教育研究9」(2003年)所収論考「専」を加筆修正・改題。 戻る
参考・引用資料
新訂字統 普及版第5刷 白川静著、平凡社 2011年
常用漢字表 文化庁ウェブサイト
表外漢字字体表 文化庁ウェブサイト
画像引用元(特記なきもの)
JIS規格外漢字(明朝体) グリフウィキ(ウェブサイト)
甲骨文、小篆 漢字古今字資料庫(台湾・中央研究院ウェブサイト)
康煕字典(内府本) 清、1716年[東京大学東洋文化研究所所蔵]:PDF版 初版 パーソナルメディア 2011年